1999年4月13日(火)
家庭用ゲーム(2)
History of Video Game(2)
とあるサイトで興味深い資料を発掘したので、しばらく、この資料をなぞりながら家庭用ゲームの歴史を辿っています。
2.メガROM時代
ファミコンが発売されて3年後、ファミコンの拡張ゲーム装置、ディスクシステム(任天堂、86年)が登場した。当時欲しくてたまらなかったのだが、結局買わずじまいだった。媒体は「イージーディスク」というもので、どこかのメーカーがフロッピーよりも安価な記憶媒体として開発したものだったが、鳴かず飛ばずだったところを任天堂が採用したという経緯がある。
当時ROMは256KBとか512KBとかが関の山だったのだが、このイージーディスクは両面で880KBあった。加えてデータの書き込みができる利点もあり、情報をディスクに直接書き込むことによって次遊ぶとき、前回までのデータを呼び出すことができた。また、おもちゃ屋の店頭にあるディスクライターを利用すれば、500円で新しいゲームに書き換えることもできた。現在はディスクライターは見かけなくなったが、任天堂にディスクを送れば書き換えてくれる。
売り上げは上々で、「やればやるほど、ディスクシステム♪」をキャッチコピーに家庭へ浸透していった。
当時の任天堂の広報は「任天堂からはROMカセットゲームを今後発売しない」と公言したこともあった。現在スーファミ版で出ている『新鬼ヶ島』や『ファミコン探偵倶楽部』『ゼルダの伝説』は今でも充分楽しめる秀逸ソフトだ。上級者向けのスーパーマリオ2もなかなか人気があった。ディスク片面に書き込めたので、その裏面はディスク版スーパーマリオ1にしていた人が多かった。第1作目もROM版とは仕様が異なり、World9と、World0というのが正規の裏面で存在した。
さらに、任天堂以外のメーカーがファミコンのハードを作ったのも画期的だった。ツインファミコン(シャープ、86年)は、ROMカセットとディスクシステムを融合させたハードだ。そう言えば、テレビにファミコンカセットを差し込んで遊べるテレビ(シャープ、83年)があった。スーファミでもあったらしい(90年、シャープ)。
ところで、ディスクシステムは2年で寿命を迎えた。理由はいくつかある。
- フロッピーのように磁性体を保護するシャッターが無く、データ破損が多かった。シャッターがあるタイプもちょこっとだけ出たが(ゴルフUSAとか)、大部分はむき出し状態だった。ユーザーは子供なので、扱いが乱雑になってしまうのは避けられなかった。
- ゲーム途中で比較的長時間のデータ読み込みが行われ、ゲームの流れを阻害した。
- データの読み書きが容易だったので海賊版が多く出回った。
- 大容量でなおかつバッテリーバックアップ機能付きのROMカセットが普及した。
こういったことが重なり、ディスクシステム全盛の時代は終わった。
任天堂は成功した企業であるが、ファミリーベーシックやディスクシステムのような失敗を繰り返して今の成功に結びついている。ファミコンに接続して遊ぶ「ロボット」というのもあった。ソフトは「ブロック」「ジャイロ」の2種類で終わった。
ファミリートレーナーは任天堂ではないが、あれはけっこう普及していた。今、ダンスなんとかというシリーズものやその亜流が全盛だが、似たようなものは当時からあった。3Dゲームもあった。特殊眼鏡をかけるとキャラクターが飛び出して見えるものだ。ソフト名は「飛び出せ大作戦」だったかな。手袋型コントローラというのもあった。
当時は「連射(連打)」ブームにもなっていた。ハドソンが火付け役だ。「ジョイカードMk-II」というオート連打コントローラを発売し、各種名人も取りそろえた。高橋名人、毛利名人……2人の対決は映画にもなったし、アニメにもなった。自力による連射を極めたい人には「ジョイスティック」があった。1秒間に何回打てるかを測定するためだけのおもちゃもあった。もちろん、企画力のあるハドソンは連射対応ソフトを売り出して連射ブームを固定化させた。「スターソルジャー」「ヘクター88(違うかも)」というシューティングゲームを「キャラバン」というゲームコンテストで競わせたりもした。
また、ロールプレイングゲーム(以下RPG)も増えてきた。「ドアドア」でデビューしたエニックスが発売した「ドラゴンクエスト」(以下DQ)は社会現象にまでなった。当時最も売れていた週刊漫画誌、『少年ジャンプ』とのタイアップも功を奏した。特にDQ3はニュースでも取り上げられ、学校を休んで徹夜で並ぶ子供や、恐喝事件まで引き起こした。以後、発売元のエニックスは発売日を休日に設定するようになった。
私もDQ3は予約をしたのだが、なかなか入荷されないどころか不人気ソフトと抱き合わせで売りつけられそうになったので買うことはなかった。データがすぐに消えてしまう困った面はあったが、これもまた、アイテム無限増殖や防御をしながら攻撃をするとかいう、裏技満載の楽しいゲームであった。
このあたりから、サードパーティー(ゲームソフト制作会社)の力がハードの売り上げに大きく影響することが証明された。
この時期、もともとアーケードゲーム(ゲーセンのゲーム)で多大なシェアを収めていたセガ・エンタープライゼス(以下セガ)がSG−1000(83年)をひっさげてこの業界に参入してきた。この翌年にはSG−1000II(84年)、さらにマークIII(85年)を発売したが、ファンには悪いがマニア向けゲームの域を超えることはできなかった。確か、旧来の機種では新機種のゲームは遊べなかったと思う。さらに、マスターシステム(87年)、メガドライブ(88年)と続くのだが、とにかくセガはハードのスパンが短い。いちおう、アダプタを買えばメガドライブでマークIIIのソフトは遊べたけど、そのあたりがユーザーの不満の種であった。
メガドライブは16ビットマシンで、8ビットマシンのファミコンと比較すれば単純計算で250倍以上のスペックだ。セガは当時、「今後5年間は新機種を出さない」と公言したものだった。次世代機「サターン」の発売が94年なので、公約は守られている。
もう1つファミコンの対抗馬となり得たハードといえば、PCエンジン(NECホームエレクトロニクス、87年)だ。ソフト媒体をHuカードというカード形状にし、収納、持ち運びを容易にした。ファミコンよりも後発なので当然機能は優れていた。「The 功夫」というアクションゲームがあったが、内容は「スパルタンX」とあんまり変わりがなかった。何が売りだったかというと、画面の半分を占める特大のキャラクターが動くことだった。内容はともかく、インパクトはあった。老舗のハドソンが提携していたこともあり、シェアはそれなりに伸びた。その後、PCエンジンCOREGRAFX(89年)、 VRAMを倍増強化したPCエンジンスーパーグラフィックス(89年)、PCエンジンシャトル(89年)、と方向性を見失ったかがごとく次々とハードを売り出した。やっとPCエンジンコアグラフィックス(89年)で落ち着いた。
メガドライブにPCエンジン。さすがの任天堂もファミコンでは苦しくなったので、スーパーファミコン(90年)を発売する。10年近く経った今でも、現役の風格を残している機種だ。
スーパーファミコンの登場により、いよいよ16ビットマシンの時代に突入となった。